平和記念式典中のシュプレヒコールについて~国民民主党・玉木雄一郎代表の発言の何が問題か~

国民民主党の玉木代表が先日8月6日Twitterで苦言を呈した、広島平和記念式典周辺でのシュプレヒコールがうるさいという件について、以下の観点から調べてみました。
①被爆者や遺族や参列者たちはどう思っているのか
②デモ団体や現場や市の対応はどうなっているのか
③平和記念式典のあり方の時代的推移はどのようなものか
④ニューヨーク市エイズメモリアルパークの追悼式を参考に

その前に、私が上記の事柄について調べて書こうと思った理由を書いておきます。私がこれまであらゆる差別に反対してきたこととも関係があります。
玉木さんはTwitterで、式典中の反戦・平和運動をする人のシュプレヒコールがうるさいことについて、「リベラルの限界」という言い方で腐しました。

式典中は静かにしてほしいと言うところまでは理解できますが、リベラル云々が非常に多くの問題をはらんでいました。ここで玉木さんが言う「リベラル」が具体的に何を指して言っているのか。アナーキズムや共産主義のことか、中核・革マルなど過激派を指しているのか、それとも、反戦・平和運動や既存のリベラル政党なども全部含めて一緒くたに言っているのか。あとからいくらでも解釈や言い訳のしようがあるような言い方で、特定のカテゴリーの人々や属性を腐すのは、まさに差別を広げていくときの常套手段です。

私は長年差別というのがどういう風に広がり、どんな影響をもたらすのかを見てきました。
あらゆる差別に共通しているのは、極端なケースや、一部のひどい事例を取り上げて、あたかもその属性やカテゴリー全体で起きているかのように言われることです。一般的に差別はそのようにして行なわれてきたし、今もそのようにして行なわれています。
私がライフワークとして取り組んでいるのは、被差別属性の中でも特に人々に理解されにくい、セックスワーク/ワーカー差別、性表現/性表現者差別、LGBTQ+差別など、主に性に関することですが、ここ数年特に取り組んでいるのが、インターセクショナリティや、重層的困難、複合差別の問題です。なぜなら、人は自分が何かのマイノリティであっても、他のマイノリティの人のことになると同じような問題意識を持てない問題・壁があるからです。そのため、マイノリティが他のマイノリティを差別するということが頻繁に起きていて、マイノリティどうしの連帯や共闘・協働というのがとても難しかったりします。その結果、すべてのマイノリティを苦しめ、あらゆる差別を生み出し強化し、マイノリティが永遠に助からない社会構造を作り出している政治や国の問題を共有できないどころか、マイノリティどうしで対立させられるようにできている社会の成り立ちに気づけないままになります。
マイノリティや持たざる者というのは、常に権力やお金を持っている人から、「あんなマイノリティと仲良くするなら助けてやらん」と常に踏み絵をさせられるので、常に分断、孤立しやすくなっています。マイノリティや持たざる者は、力のある者の前で、「自分もあなたと同じように、他のマイノリティや持たざる者を踏みつけることができる同じ人間です」と誓いや証明をすることで再分配にありつけたり、仲間に入れてもらえるというのが世の常です。そうではなく、私は、マイノリティや困っている者どうしが助け合い、差別を温存する構造に対してともに闘える関係、社会を目指しています。
玉木さんの発言の話に戻しますと、つまり人が差別する社会的カテゴリーを作り出す理由は、それによって力関係を作り出すことができ、自分が優位に立つことができるからです。玉木さんの場合、リベラルという社会的カテゴリーについて、「式典中、うるさいシュプレヒコールをする非常識な人々」というネガティブなレッテル貼りをしました。「平和反対運動のよう」とも言って、リベラルのカテゴリーに入る人々を徹底して民衆にとっての悪者・敵であるかのような見方を広げようともしました。それによって、人々に、どの社会的カテゴリーに属せば不利・有利になるか、自分はどちらに見なされるように振る舞えば有利・不利かと、人々を追い込んだ効果があったと思います。Twitterでは一気に、「リベラルみつけたら叩いていいんだ」「こいつもリベラルかorそうじゃないか」という空気になっていきました。

私は、政治家で政党の代表である立場の人間が、社会不安を引き起こすレベルのことをしていると危機感を強く持ちました。
そこで私は、リベラル云々の発端となった、平和記念式典中におけるシュプレヒコールうるさいと言われる問題とその解決について実際のところや現場はどうなのかを調べて、分断や対立に引きずり込まれた人々が少しでも理性的に物事を見たり取り組んだりできるようになって原状回復になればと思い、調べることにしました。このことに問題意識を持ったもう一つの理由は、自分自身も活動で、デモやパレードを何度か開催したり毎年参加したりしているので、自分事として考えたいことでもありました。

①被爆者や遺族や参列者たちはどう思っているのか

広島市は2019年から毎年、平和記念式典周辺でのデモ音量についてどう思うか/どうしたらいいと思うか、式典参列者にアンケート調査を実施しています。
デモ音量が式典に「悪影響がある」という意見が多い年と、「影響がない」という意見のほうが多い年があり、年によって違いました。その要因は例えば、「悪影響がある」という回答が前年よりも増えたある年は、「85デシベルを超える時間が昨年より2分長かった点などが参列者の受け止めに影響したとみている」というふうに、詳細な分析がなされているようです(※1)。
デモ音量を規制する措置を講じるべきかどうかについては、「関係者に対する要請や話し合いを続けるべきだ」という意見が毎年常に最も多く、規制反対が多数。そのほか「何もする必要はない」という意見と「規制を講じるべき」という意見がそれぞれ同じくらいあるようです(※2)。また、別のアンケートでは、被爆者団体の立場も5団体中4団体が、規制に対しては反対または慎重論となっています(2019年)。

②デモ団体や現場や市の対応はどうなっているのか

参列者たちや被爆者団体のこうした意向を受けて広島市は、デモ音量については条例などで規制する方法ではなく、毎年8月6日にデモをする市民団体と協議を重ねているそうです。
その結果、目安とする85デシベルを超える時間が半減したり(2020年)、黙とうからこども代表の「平和への誓い」までは市民団体が拡声器を使わなかったり(2022年)、85デシベルを超えた時は市側がデモ団体に合図のサインを出す(デモ団体側も測定器で計測している)等、毎年話し合いによる調整の結果が新聞報道されていることがわかりました。

戦争の犠牲者を静かに慰霊・追悼するのも大切、そして慰霊や追悼だけでなく、平和を守るため声を上げたり、闘うことも大切という、その両方が、参列者や被爆者、遺族らの間にはあるのかもしれません。

③平和記念式典のあり方の時代的推移はどのようなものか

犠牲者を追悼し平和を願うこの催しのあり方も、時代によって変化してきたそうです。平和記念式典の前身に当たる「平和祭」は、盆踊りや仮装行列があったり、その前身の「平和復興祭(または平和復興市民大会)」では、横断幕や、プラカード、のぼり等を持った市民7000人が参加したそうで、現在の厳かな雰囲気の式典とは全然違うものだったようです(※3)。

元・広島大学教授の石丸紀興氏の「平和祭・平和記念式典の場所移動と定着過程に関する研究」(※4)によると、「平和記念公園に空間的に収斂させる力を持った原爆死没者慰霊碑(公式名:広島平和都市記念碑)が完成」したことによって(昭和27年以降)、「空間だけでなく式次第をも秩序付けるような働きをする」ようになったと述べられています。「すなわち、極めて強い方向性を有する軸のもとに多くの参列者が集まり、かつそれぞれが自然に慰霊と平和志向の中に投げ込まれることとなった。式典が主催者と参列者が向き合って対峙するのでなく、ほぼ全員が北方向を指向し、かつその視線は抜けてしまうのであった。これは、いわば対軸方式から、一軸方式への転換であった。そして一軸方式も、遠景まで視野に入れるならば、何かに受け止められるということ、すなわちその軸線の先に原爆ドームが存在するというと構図となったのである」と。石丸氏は、こうした構図が作られていったことも「厳粛化」の要素を整えたと分析しています。

そうして変化してきた式典の時代的変化もあってかどうかわかりませんが、毎年参列者らに行なっているアンケート内容について、「式典の内容についても問うてほしい」という要望もあるそうです(※5)。
(広島市は式典について、周辺のデモの音量のことはアンケートで聞こうとするが、式典のあり方や内容については聞かないでいる。)

以上のような広島の人々の実績に心から敬意を抱くと同時に、社会や国による犠牲者を追悼することと、要人に訴えるデモを簡単に対立させたり、また、対立しやすくような現地の構図・設計のあり方を放置したり、両者の両立に向けた建設的努力に思いを馳せない政治家は、いよいよ許しがたいし、だめな政治家と思いました。

④ニューヨーク市エイズメモリアルパークでの追悼式の場合

最後に、ニューヨーク市エイズメモリアルパークを紹介しておきます。エイズで亡くなった人々を追悼し、国のひどかった時代のエイズ対策の反省を促し、HIVポジティブの人々やエイズ患者、エイズの流行を抑える活動をする人々に力を与えるためのランドマークです。ここで行なわれる追悼イベントでは、追悼とデモが行なわれたりしています。エイズメモリアルパークHP(※6)をみると、追悼することとエイズアクティビズムをゾーニングしているようなことはなく、等価またはにこいちに捉えられていることがわかります。それがなぜなのかは、ぜひHPや、ACT-UPなどの映画をみてほしいです。

メモリアルセレモニーについて、まだまだ知らない様々なやり方や捉え方があるのをともに知っていきたいです。お読み頂きありがとうございました。

※1、2
https://www.hiroshimapeacemedia.jp/?p=101072
https://www.hiroshimapeacemedia.jp/?p=124434
※3
https://hiroshima-bon-dance.jp/history/index.html
※4
https://hpmmuseum.jp/modules/xelfinder/index.php/view/2032/16_ishimaru.pdf
※5
https://mainichi.jp/articles/20200328/ddl/k34/040/473000c
※6
https://www.nycaidsmemorial.org/

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