政治家がセックスワーカーの敵であってはいけない

自分のことを正義感が強いと思っているリベラル左派の政治家の中で、資本主義の矛盾を抱えていることに疑問を持つ余裕や、それ(矛盾)を手放したりする選択肢があまりない人々に対する冷たい眼差しと苦手意識を持っているのではないかと感じることがたびたびあります。

そして、そういう正義感は、議論には勝っても、動機付けに負けるということです(ある社会学者の名言でもあります)。

私が性産業の世界に共感するところは、たとえどんな政治思想、宗教の信者だろうが、どんなに嫌な性格の持ち主だろうが、どんな出自や学歴、見た目だろうが、みんな同じ料金さえ払えば、原則的には、誰でも平等に接してサービスしてもらえて、平等に大切なお客様として受け入れてくれる、平等な世界だからです(しかし、一歩お店を出れば、金以外にもっと様々な資本主義的武器を持ってないと平等に扱われない社会がある)。働く側もしかりで、客からのクレームさえなければやりたくないことはやらなくてOK(労務自主管理)、自由出勤で休みたいときに休むことができます(ワークライフバランス)。そんな仕事がほかにあるでしょうか。

そんな性産業が、右から左まで支持されるのは不思議ではありません。

これ(性産業)を、ポリコレ棒で叩こうと思えば、「拝金主義による性の売買、女性性を売り物にし、ルッキズムとエイジズム等、主流秩序的価値観を商業化し、金で性的同意を買っている」等、いくらでも批判できるでしょう。
(こうした批判については私自身はこれまでずっと丁寧にあらゆる媒体で応答しつづけ不問に付すことは全くしてきていませんが、本論のテーマと外れるためここでは割愛させて頂きます。)

「お前たちの中にある、資本主義の矛盾!」と、政治的な”正しさ”を徹底的に追及される目を特に集中的に向けられるのは、差別を受ける人々の宿命。歴史が証明済み。差別を受ける側が不祥事を起こすと、それがそのコミュニティ全体で起きているかのように言われ続けるのもテンプレ。

そして、それについてどんな努力しているかを証明しようとする人が出てきてたり、シチズンシップを発揮しようとしても、「お前たちのやる慈善活動など偽善でしかない」と一蹴されて終わるのです。これが差別の烙印の残酷さの一つ。被差別から抜けられなくなったり、一歩踏み出す勇気を持てなくなる原因の一つ。

もちろん、セックスワーク差別を含む様々な種類の差別におけるこのようなデジャブな光景というのは、リベラル左派だけが引き起こす光景ではなく、右から左まで存在しています。

例えばセックスワーク差別言説においては、右左いずれの立場にも、主流秩序的女性観、性道徳、男尊女卑、家父長制、性別の本質主義、ポピュリズムが含まれていることが多いです。ですので、もちろん、セックスワークを職業として肯定する言説の中にも、新自由主義的な文脈での職業肯定もあれば、反新自由主義、反差別、フェミニズムの文脈での職業肯定もあります。

したがって私は、セックスワーク差別はぜんぶリベラル左派のせいと言いたいわけではなく(リベラル左派政治家がいつも迷惑な性産業規制の法律を作るところは罪深いが、右や保守も売防法成立、風営法改悪、刑法174、175条の濫用、AV新法まで全部賛成してきた歴史がある)、既成のリベラル左派政党の政治家たちが、これ以上新興政党や右派や保守層に、無党派層や浮動票を取られたくないと思っているのなら、ちょっと考えたほうがいいんじゃないか、改めたほうがいいんじゃないかと思うことを、リベラル左派としての応援の意味で書いています。

リベラル左派政治家に対して根本的な限界を感じるのは、前述したような、自分は正義感が強いと思っているリベラル左派の政治家で、中流階級の支持者に囲まれているインテリエリート層の人だと、性産業で働いた経験や現役セックスワーカーのお友達がほとんどいないのではないかということです。だから、性産業について話を聞くのが、買春処罰を求めるような支援者やフェミニストの活動家などに偏ってしまうという機制や傾向がそこにはあるのではないかと思います。こうしたところにもひとつの階層・階級の断絶があるような気がします。

もう一つは、政治思想や政策がほとんど自分と同じ人が言ってることしか応援できない、興味を持てない、一緒に活動できない/したくない、というのもあるのかなと感じています。

党派主義で動きにくくなるというのは、特に政党に所属している人であれば右から左まで誰もが持つ実感かなと思います。

私自身の政党の捉え方は、今の議会制民主主義のシステムでは、政策ごとに投票することができず、人や政党で選ぶしかなく、それはなぜかと考えると、国会開催ごとに大体100ぐらいの法成立や法改正が通るため、有権者がそれらを一つ一つ読んで判断していられないから、有権者のそのコストを省くため、政党の大まかな方針や考え方で選ぶようになっていると思う。

だから政党政治であるのはしょうがないのかなというのと、党派主義に縛られるのも避けがたいものがあり、それはすぐには簡単に変えられないとしても、私はこれは変えられるだろうと思うものもあります。

それは、意見を聞いてほしいとお願いしている人の意見をちゃんと聞いて、その意見が自分の意見が違えば、なぜ違うかをちゃんと説明する態度、これは党派関係なく、誰でも、いつでも変えられるし、面倒臭がらず改めてほしいです。べつに、意地悪な嫌がらせ目的で絡んで来る人全員に誠実な態度を、と言っているわけではありません。

私は人の困りごとや悩みを聞く相談員研修をたくさん受けて学んだことのひとつに、相手の困りごとや生き方、回復の仕方を否定しない、そして傾聴には訓練が必要ということがあります。

私も傾聴スキルトレーニングや相談員研修を受けるまで、それができていませんでした。また、普段から過労で頑張りすぎて、意見の違う人の話を受け止める余裕がなかったり、相手に対する第一印象の見方に縛られすぎてると、できないときがあります。

困り事を聞いてほしいという要望を持つ人のバックグラウンドによって、最初からネガティブな見方で警戒したり、話し合いもせずに批判的な態度、無視する態度では、当然ながら自分と同じような人たちからの支持しか得られないでしょう。政権を目指さなくていいなら別にそれでもいいと思います。

しかし、自分たちの従来の支持層以外にも支持を広げたいのであれば、自分が今まで向き合ってこなかった人々、普段からつきあいのなかった階級・階層の人々に対して、向き合う覚悟を持つしかないのではないかなと思います。

べつにみんな同じ意見にならなくていいのです。意見が違う人間どうしでも、できるだけ傷つけ合わずに同じ社会で助け合ってとまではいかなくても共存していかなければいけないということを、自ら実践し証明できる政治家が求められているのではないでしょうか。

誰でも相談に行けるところでは、いろんな矛盾を抱えながら生きてきた人の困り事の相談も聞きます(誰でも矛盾は抱えていますが)。そういう相談者のことを、最初から悪人として警戒したり説教したり批判したりはしません。サバイバーや、エンパワメントの機会が得られなかった人かもしれないと思いながら話を聞くので、最初にその人にかける言葉も聞く態度も、説教や批判や不信感とは真逆になりますし、敵対的にはなりません。結果的にいい時間にならなくても、また来てねくらい言います。

そのような意味において、自分のことを正義感が強いと思っているリベラル左派政治家の一部の人たち、買春処罰化を絶対になにがなんでも実現したいと思っている一部の政治家は、長らく、性産業に関わる人々に対して、まともに話を聞く対象ではないというような、あからさまな失礼な態度を取り続けていると思います。

そういう、話を聞く姿勢のない政治家の中には、そもそも、意見が違うし票にもならないと決めつけた有権者に対して、「話を聞いてほしかったら、そう思われる人間になれ、上まで上がってこい」と心の中で思っているのかもしれません。公金で仕事しているお前が下りてこいよと思います。

有権者の人々も人間だから、政治家のそういうところを見抜いて、誰が一番人の気持ちを理解しようと努力する政治家か、誰が一番、みんなの声を平等に聞いてくれる政治家かを見ていると思います。

よかったらシェアしてね!
  • URLをコピーしました!
  • URLをコピーしました!

この記事を書いた人

コメント

コメントする

目次